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涅 槃 会(ねはんえ)

本年は浄土宗梅蔵院を会場とし、涅槃会法要を執り行いました。(令和3年2月15日)



 

法要風景





本堂内扁額「專念佛場」

知恩院第79世 孝誉現有大僧正による揮毫
天保3年(1832)—昭和9年(1934)。現愛知県一宮市大赤見に生誕。
天保11年(1840)出家得度、弘化元年(1844)増上寺に修学。
明治3年(1870)山口県善生寺に山口講学場(浄土宗学校)を設立。関東檀林の制度に則して講義や加行伝宗伝戒を行った。
同20年百万遍知恩寺法主に就任するも、同23年京都転法輪寺に隠棲し、念仏三昧の生活に入る。
同26年大日比西円寺(長門市)住職を兼務。
同30年増上寺法主、同35年浄土宗管長・知恩院門跡。(参照:web版新纂浄土宗大辞典




山伏兼道秀太郎霊碑

本堂前に建立されている。
背面に「寛永十二年七月二十二日 住吉祭ノ際於魚棚受難」と刻銘。

夏の住吉神社祭礼において各町内からの引き回される山車は、江戸期にはくじ抽選によって引き受けの順番が決められていた。
一番山車になると、先頭山車を獲得でき、普段立ち入れない城内へ特別に入ることも許され飲食が振る舞われ、
さらに初穂料や祝儀が大いに期待されることから、各町内ではその年最大の関心事であったという。
諸国行脚中であった兼道秀太郎なる山伏が、当寺そばの「魚棚町」旦那衆と懇意となり、1番くじを引き当てられるようにと懇請され祈祷した。
ところが2番くじとなったために憤慨した町内の者達から乱暴を加えられ、近くの四辻「四ツ屋橋辻」に生き埋めにされてしまった。
霊碑にある寛永12年(1635)7月22日のことであろう。
その後、師の祟りを恐れた人たちが御霊を懇ろに供養するようになったという。
昭和11年に水道工事中、人骨が発見され、梅蔵院に埋葬された。




四ツ屋橋辻」の白壁に碑石

「山伏兼道秀太郎師は諸国行脚の砌り偶々当町に來る時
恰も住吉祭礼山車先行当籤を約して意に副はず
ために町民憤って傷を與へ残息のまゝ此所に埋没す
茲に史実を残して師の霊を慰む
昭和三十年秋彼岸社日」
と刻されている。




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