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金谷天満宮(金谷神社)の「菅公廟碑」



「金谷菅公廟碑」は鳥居を入ってすぐ左手

  

金谷天満宮と別当寺院「正燈院」について

金谷天満宮は鎌倉時代の文治2(1186年)に、長門守護の佐々木四郎高綱が当所へ下向したおり、
人民安全のため太宰府より勧請したが、やがて荒廃したという。

一方、往古は金谷天満宮の社坊(別当寺)であった「真言宗知足院」は久しく無住が続いていたところ、
堀内にあった臨済宗松雲院(輝元草創の天樹院の末寺)の第二世乾鼎(正保4・1647年)が隠居後に住した。
芸州吉田にあった毛利元就開基の臨済宗常栄寺境内に塔頭寺院としてあった「正燈院」は、
防長移封後に常栄寺が山口に移転されると断絶していた。
乾鼎はこれを復号し(※寛永8・1631年に新寺建立禁止令発布)「臨済宗陽明山正燈院」に改宗・改号、自身が開山となり現在の金谷天神より東にあった。

この石碑には、正燈院に享保3(1719年)住した第五世宗aが、荒廃していた天満宮を再興しようと発願し、
社殿等を整備した経緯などを記している。
宝暦9(1759年)に建立され、末尾に「明倫館祭酒山根清子濯謹撰・草場安世仁甫謹書」とある。

山根子濯(号は華陽、名は之清、明和8・1771没、明倫館学頭)
草場安世(号は大麓、正字は仁甫、享和3・1803没、明倫館助教)

なお、「正燈院」は明治になり神仏分離政策を経て廃寺となっている。