平成14年度 仏教文化講演会記録

平成14年10月29日
於 萩市新川 ベル・ホール


臨済宗入門

観音院住職 岡本敬道


 これから「臨済宗入門」という題で話をさせていただきますが、これは決して自分の属する宗派を持ち上げ、他宗との優位性を言おうとするもので無いことをお断り致します。古人が「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」と示していますように、同じ高嶺の月を見る為の分け登る道の一本を、それも極さわりだけをお話しさせて頂きたいと思います。
 臨済宗、今日、萩には私観音院、楞厳寺、大照院、長藏寺、龍藏寺、善福寺、徳隣寺の7ヶ寺が存在致しますが、御承知のように禅宗の中の一宗派でございます。そこで禅宗の歴史を簡述べながら臨済宗の宗旨をお話させて頂きます。
 お釈迦様は、我々は大恩教主本師釈迦如来大和尚とか大恩教主本師釈迦牟尼大世尊と呼びます、八万四千の法門を説かれ、その教えが一切経として今日まで伝わっているわけですが、これとは別に、釈迦の心が伝えられておりまして、これを「教外別伝」と申します。
 ある時、お釈迦様は靈鷲山という山に八万のお弟子をお集めになられました。そこでお釈迦様は梵天が釈迦の供養の為に献じた金波羅華を手に取り、八万のお弟子に示されました。しかし、お弟子はその意味を理解することができませんでしたが、ただ、摩訶迦葉尊者のみが破顏微笑されました。そこで、お釈迦様は「我に正法眼蔵、涅槃妙心あり、摩訶迦葉に附囑す」(我が仏心を摩訶迦葉に授けよう)と言って、正法を伝授されました。
これがかの有名な「拈華微笑」という故事でございます。こうして摩訶迦葉尊者に受けつがれたお釈迦様の正しい教え(正法)の28代目の継承者が菩提達磨大師で、この達磨さんがインドより中国に渡られ、嵩山正林寺で面壁九年の坐禅を修行され、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」(文字、言説を立てず、文字言説による教説の外に別に直ちに心から心に〔以心伝心〕仏祖の悟りを伝えること。自己の心をまっすぐつかみ、自己の本性を徹見して悟ること。〈煩はしい教学にとらわれないで、人間が本来持っている仏性を直ちに体得すること。〉)の宗旨を標榜されてここに禅宗が起きるわけです。この禅宗という名称は、達磨大師から始まりますので達磨宗とも呼ばれ、また、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」ということも文字や経典をたよらずに、仏の心(正法)を、師匠から弟子へと直接伝へていく(師資相承)ということで、さかのぼれば「拈華微笑」の故事に行き着き、その故に、仏心宗とも呼ばれます。
 このような事情で、禅宗は達磨大師を初祖(鼻祖)とし、それから6代目の祖師に慧能大鑑禅師(638~713)が出現され、この六祖慧能禅師のもとより、南岳懐讓禅師(677~744)、青原行思禅師(?~740)の二大弟子が出現され、数代をへるうちに中国の禅宗は、雲門宗、?仰宗、法眼宗、曹洞宗、そして臨済宗の五宗に分かれます。また臨済宗は楊岐派と黄龍派の二派に分かれ、これを総称して五家七宗と呼んでいます。これらの呼称は真言宗、天台宗、浄土宗、淨土眞宗などという場合の宗とは異なりまして、各宗祖といいますか祖師方の禅的個性によって分かれたものであって、雲門宗とは雲門風の禅、曹洞宗とは曹洞風の禅、臨済宗とは臨済風の禅とでもいうくらいの意味なのです。
 これらの禅が師資相承のもとで日本にもたらされるのは、鎌倉・室町時代です。日本へ渡来した禅は、四十六伝あったといわれますが、そのうち、法を受けつぐ弟子ができ、流派を成したものは二十四流とされています。その二十四流のうち曹洞系の三派を除けば、他はすべて臨済系に属し、しかも栄西禅師(1141~1215)以外は、楊岐派の禅を伝えています。現在、臨済宗には建仁寺派や南禅寺派をはじめとする十四の大本山と、黄檗宗に分かれていますが、その由来はこの禅宗伝来の因縁によるものです。
ところで、先程も述べましたように、禅宗の始祖達磨大師から六祖慧能(えのう)禅師へと法が受け嗣がれ、さらに慧能禅師から五代目に法を嗣がれたのが、唐代の臨済宗宗祖、臨済義玄(ぎげん)禅師(?〜867年)です。 
 中国では、古くから臨済禅師を臨済将軍と称し、自己にも弟子にも厳しい修行を課したことで有名です。その教えは、
 その語録『臨済録』に「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。」とありますように、「一無位」の一は、絶対を意味し、無位とは、一切の位づけができないということです。また、「真人」とは、悟りを開いた人であり、悟りの真理そのものを意味しています。このことばをわかりやすくいえば、わたしたちの肉体には、一無位の真人がいて、つねに、あなたたちの全感覚器官を出入りしている。と、いうことです。  
 続いて、「未だ証拠せざる者は看(み)よ、看よ」、すなわち、一無位の真人を経験していない者は、心眼を開いて早く経験せよ、と臨済禅師はいわれております。「一無位の真人」は、仏であり仏法であるといえます。しかし、『臨済録』では、仏ということばは使われず、真人などのように「人」ということばが用いられています。仏といえば、何かわたしたちが近づくことのできない存在としてとらえられてしまうからです。 
 臨済禅師は、「人」ということばを用いることによって、わたしたちは、日々の生活においても真理を見い出せることができ、そのために、絶えず自己を見すえることの大切さを説かれたのです。 すなわち、人間の主体性を重視し、生まれながらにしてだれもがそなえている、尊厳で純粋な人間性を自ら悟ることによって、仏とかわらぬ人間の尊さを経験するところにあります。これが、臨済宗の宗旨なのです。宋代になって、臨済宗は楊岐 日本では、鎌倉時代に初めて、栄西禅師が黄竜派の禅を伝え、続いて、蘭渓道隆禅師や無学祖元禅師などの中国僧が来朝し、楊岐派の禅を伝えられ、純粋な禅風を吹き込まれました。その純粋な禅風の刺激を受けて、すぐれた日本人の禅者が生まれました。大応国師(だいおうこくし)(南浦紹明(なんぽじょうみょう))、大燈(だいとう)国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))、無相(むそう)大師(関山慧玄(かんざんえげん))の「応燈関の法灯」といわれる三人です。また、天龍寺を開山した夢窓疎石(むそうそせき)は多くのすぐれた門下を出し、夢窓派を築きました。そして、室町時代には、応燈関の流れと夢窓派の流れによって、京都・鎌倉を中心に、臨済宗は大きく発展したのです。
 江戸時代中期には、臨済宗中興の祖白隠慧鶴禅師(1685~1768)によって、禅の教えが鈍化され、大衆教化の面でもさらに発展しました。 白隠禅師は、修行者を悟りに導く手段として公案(禅問答)を重視し、独自の公案も創られました。その中の一つに有名な「隻手の音声」があります。両手をパンと打ち、「どちらの手が鳴ったか」と問うのです。この白隠禅師の法を嗣がれた峨山慈棹禅師から隠山惟?禅師と卓洲胡僊禅師とが法を嗣がれ、現在の臨済宗の法系はこのいずれかに属します。

白隠禅師の教えを一言で言えば、『坐禅和讚』に示された「衆生本来仏なり〜此の身即ち仏なり」の自覚であり、それは臨済禅師の「一無位の真人」の自覚と一つのものであり、お釈迦様が摩訶迦葉尊者に伝えられた「正法眼蔵、涅槃妙心」ということです。この自覚の為に坐禅を修し、公案を用い、動的坐禅としての作務を行ずるのが臨済宗です。

 このようにお話しすると、お経はどうなのかということになりますが、すでにお解りのとおり臨済宗をはじめとして禅宗には依って立つ経典はありません。初祖達磨大師が「不立文字、教外別伝」と示されていますように、真の仏法は経典や教理に依らず以心伝心であるという立場にたちますが、これは文字に耽り捕らわれないということです。我々の方では、「禅は仏法の総府」などと申します。なぜ総府なのかと申しますと、達磨大師が中国へ来られたときに一冊の経典も持ってこなかったので、人がこのことを尋ねたら、大師答えて「われは仏法の荷主である。荷物は先に色々の人がいて沢山伝えているから、今はただその取り扱いに来たのである」と述べたという話があります。八万四千の法門もそれぞれの機に応じての説法で、月をさす指です。法門八万四千の説相、説かれていることのありさまは本より異なっていますが、釋迦の御本領は不異不別でなければならなりません。この不異不別である一実真如の仏心を捉え込んで自己の身心として縦横無礙に使用するのが大師の精神であり、そこには八万四千の法門のすべてが存在しているわけであります。また、古人に「一切経は吾が家具なり」ということばがあります。家具には沢山の種類がありまして、時と処によって用不用があります。この用不用を知って善くこれを善用する時は、立派に家具としての作用を成して一つ一つ家庭の助けとなり、宝となり、装飾荘厳となって行くように、一切経も経そのものの本来の根本義を価値あらしむるように用いていって、在々処々に大いに活きた仏法を活用させ、人や社会を利するのであります。
 祖師方は、徹底的に仏教教理に通達されておりました。不立文字とは不知文字ではないということです。したがいましてどのような経典教理を受け入れることができるわけですが、今日全国標準的に扱う経典は、開経偈、懺悔文、摩訶般若波羅蜜多心経、消災妙吉祥神呪、大悲圓滿無碍神呪、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第廿五(観音経)、仏頂尊勝陀羅尼、金剛般若波羅蜜經、大仏頂萬行首楞厳神呪、四弘誓願文、舍利礼文、延命十句観音経、廣開甘露門、白隠禅師坐禅和讚、等々です。

 次に御本尊ですが、ご本尊とは、礼拝の対象として崇拝する仏・菩薩・曼荼羅や「南無阿弥陀仏」などの名号をいいます。
 臨済宗ではお釈迦様の悟りそのものを坐禅により体得することが根本教義ですから、本尊を何にするかを特に定めてはいません。しかし、礼拝の対象としての本尊仏は、教義からすればまず第一にお釈迦様ということになります。また、地域の信仰や、古来からの由緒由縁により、観世音菩薩や阿弥陀如来、その他の尊像をご本尊としてお祀りし、礼拝することもあります。ちなみに、観音院のご本尊様は釈迦牟尼仏です。観音様は観音堂の御本尊です。
 一般のご家庭でも臨済宗であれば御本尊はお釈迦様でよろしいでしょうが、観世音菩薩や阿弥陀如来、その他の尊像をお祀りされてもかまいません。

 臨済宗の入り口のことについてお話してきたなかで、どうしても触れておかねばならないことがあります。それは、黄檗宗のことです。萩では東光寺、通心寺などがあります。その黄檗宗とはどういう宗派かということについてお話ししたいと思います。
 黄檗宗は中国は明末の動乱期に長崎へ渡来した隠元隆g禅師(1592〜1673)が開かれました。楊岐派の法を嗣ぎ、臨済宗に含まれますが、法規などが中国的で、我が国の臨済宗と異なったため、独立して一宗をなすにいたり、その呼称は禅師の居られた山の名からとられました。本山は宇治にある黄檗山万福寺で、徳川家康の帰依を受け、寛文2年(1662)に建立されました。
 この禅師は明の国より渡来し、日本の禅道場に法戦を挑んで各地を遍参した事があります。その折、京都の妙心寺にも上山し当時の山主、愚堂和尚と問答に及びます。
「開山、関山国師の語録を拝見したい」
「開山さまには語録はありません」
「語録なくして、何で開山と云えるか」
「開山さまには語録はないが、ただ『柏樹子の話に賊機有り』という言句があります」
 隠元禅師、この一語を聞いて身震いし、
「この一語、百千万巻の語録に勝る」
と云ってうやうやしく礼拝したと伝えられています。
 隠元禅師をして驚懼(きょうく)せしめた語が、まさにこの「賊機有り」の語です。
 では、「柏樹子の話」とは何か。
 これは、『碧巌録』とならぶ公案集の『無門関』第三十七則にある話です。ちなみに、第一則の「趙州無字」は、今日でも初心者に与へられる最初のこうあんになっております。 その第三十七則ですが、皆様もこの公案に参じていただけたらと思います。
 一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問います。「如何(いか)なるか是(こ)れ祖師西来意(そしせいらいい)――達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か!」。それは言ってみれば禅を伝えるためです。
 だから、この問いは「禅」とは、「仏」とは、「悟り」とは、という事です。
 これに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子」といい切ります。
 「子」は助辞(じょじ)で意味はありません。「柏樹」とは、所謂(いわゆる)、日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙(びゃくしん)といわれるもので、無数に分かれた小枝の周囲に糸杉に似た葉が付き、繁茂力が強く、冬も夏も色を変える事なく、常に緑を誇り、幹は檜に似て赤く、縦じまが美しい樹です。趙州和尚の住した観音院は別名、柏林寺ともいわれ、柏樹が蒼々(そうそう)と繁っていたといわれます。そこでの問答です。
 「如何なるか是れ祖師西来意」。「庭前の柏樹子」。
 趙州和尚は何をいおうとしているのでしょうか。
 山川草木(さんせんそうもく)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、見るもの聞くもの、存るものすべてが、そのまま仏の世界という意味で「庭前の柏樹子」と答えただけではありません。
 『趙州録』に続きの話があります。
 僧が続けてたずねます。「和尚、境(きょう)を将(もっ)て人に示すこと莫(な)かれ――私は禅とは何かと聞いているのです。境、即ち心の外の物で答えないで下さい」というのです。
 趙州和尚云く、「我れ境を将て人に示さず――私は決して心の外の物で答えてはいない」。
 そこでまた、僧が問います。「如何なるか是れ祖師西来意」。趙州和尚、厳然として、「庭前の柏樹子」と答えます。
 この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。天地ヒタ一枚の柏樹子です。祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
 この消息は釈迦、達磨といえども窺い知る事の出来ない、兎の毛ほどの思慮分別も差し挟む事の出来ない徹底的な「無心」の心です。
 その辺を後に、妙心寺の開山、関山国師は、「柏樹子の話(わ)に賊機(ぞっき)あり」と、寸評されています。この公案には恐ろしい盗賊のような働きがあって、私達が今まで営々として築いて来た名誉財産はいうに及ばず、執着分別心、煩悩妄想を、根こそぎ奪い去らずにはおかない機略があるというわけです。

 さあ、如何でしょうか。