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          救われるということ

浄土真宗・長泉寺・木村智徳


「救われる」とよく申しますが、これはどのようなことを言うのでしょうか。古い時代には「死んでからお浄土へ連れて行ってもらうこと」だと答えていたようです。決して間違いではありません。しかし、それだけでは十分ではありません。

 親鸞聖人は浄土真宗の救いを「転ずる」という言葉で説明されておられます。

それは、河の水が海の中に流れ込むと、海はそのすべての水を受けこむと言われるのです。しかし、受けこんだだけでは海はゴミ捨て場になってしまいます。きれいな水も、汚れた水も、受けこんだすべての水をきれいな一味の潮に溶かし込んでしまうのです。

そのまま受けこみ、それを変える。これが親鸞聖人の言う「転ずる」ということなのです。

私の煩悩という汚れた水を如来様の智恵と慈悲という広大な海が全てを溶かし込んでお浄土へと導いて下さるのです。

しかし、今この世界に生きている私はどうでしょうか。煩悩という汚れた水を大事に大事に抱え手放すことの出来ない私がここにいるではありませんか。

阿弥陀様は私にこの煩悩の世界をとことん教えて下さいます。私がいかに煩悩まみれであるかを教えて下さいます。しかし私がこの煩悩を決して捨てることが出来ない身であることも教えて下さるのです。

親鸞聖人は「地獄は一定住処ぞかし」と言われています。

本来ならば煩悩にまみれている私は地獄にしか行き場がないのです。しかし、阿弥陀様はその煩悩まみれの私をそのまま広大な本願海にのみこみお浄土へ導かれる身へとさせて下さるのです。ありがたいことです。

私がこの世界で出来ることは阿弥陀様に感謝し、ただ手を合わせ合掌礼拝することだけです。そして、これが今生きている私が救われるということなのです。

浄土真宗の教えは、今生きている私が救われる宗教だということを忘れてはいけません。


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