私たちの心は容易につかみがたく、定まりにくいところがあります。
そのことについてある作家が、自らの青年期をふりかえりまして、次のような随想を著してます。
途中を省略しながらではありますが、引用してご紹介したいと思います。
「私は数種の『論語』の注釈書を持っているが、大学時代最初に買った岩波文庫は、装幀がぼろぼろになってしまっている。ただし、それは、反復熟読したことによってそうなったのではない。
精神的にうっ屈していた青年期、自己抑制がきかず、読んでいてむかっ腹を立て、下宿の壁に向けて、その書物を投げつけたからである。(中略)
久しぶりにぼろぼろになった文庫本を書籍の中から探し出してきて、私はしばしの感慨にふけった。
寒々として下宿の情景や、当時の交友関係の断片が、脳裏をかけめぐる。
ただ、どの一節を読んで腹が立ったのかは、あまり正確に覚えていない。
今は、孔子とその弟子たちの言行に歴史をへだてた人間の真実を感得し、時間も超越した感動を覚えこそすれ、腹が立ったりしない。(中略)
だが、学生時代、確かに私は『論語』という書物に腹を立てていた。
たとえば、『子曰く、異端を攻(おさ)むるは、斯れ、害あるのみ』とあれば、何を!と思い、『有子曰く、其の人となり孝弟(こうてい)にして、上を犯すことを好むものは鮮(すく)なし』とあれば、かっと頭に血がのぼる、といった具合だったと思う。
上を犯すぐらいの気構えがなくて、何ができるか、と思ったのだ。
要するに、青年期特有の反逆精神をもてあましていたのであったろう。
『三日思いて益なし、学ぶに如かざるなり』とあっても、四日考えれば何か出てくるかも知れぬではないか、となんくせをつけずにはおれなかったのである。(中略)
書物に対する享受の仕方にはいろいろあるが、暗記的享受は受者の精神に、もっとも鮮烈なくい込み方をするけれども、同時に避けがたく無批判性を結果する」。
この作家は別の随想で次のようにも語っています。
「青年の特徴は、もっとも激しく時代に押し流されることによって、逆に、その時代のもっとも本質的な問題をつかみ取ってくることにある」。
最も重要なものは、葛藤を通してこそ、獲得されるものである、ということでしょか。