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浄土の蓮の花

浄土真宗・平安寺・後藤泰裕


 私事でありますが、ここ1年間は私の27年の人生の中でも特に沢山の方と出会い、接する機会が多かったように思います。

 勿論、沢山の方と出会うということで、その相手の条件は様々で年齢が私より下の方もいれば同年代の方もいますが、やはり最も多いのは年上の方々です。

 公私共に親切にしてもらう事が多く、食事や、その他の付き合いにも誘って頂いたりとても嬉しく思います。

 しかし、至らぬ点も多い私な為、注意を受けることも多々あります。

 これは良くなかった、と反省する事が多いのですが、時折納得できずに心の中で反発してしまう事もございます。

 その様な時には、自分では気付かなくても、気持ちが表情に現れている時もあるのではないかと思います。

 たかが27歳という年齢ですが、それまでに培ってきた経験や固定概念が素直に物事を聴く事を妨げるのでしょうか。

 自分の考えに執着し、年長者の助言をも拒絶してしまい、果てにはその方自身の否定にも繋がっていくことにもなりえるのではないかと思います。

 さて、お釈迦様がお説きになられた『仏説阿弥陀経』の中に、阿弥陀仏の浄土に咲く蓮のありさまを語られた言葉がございます。

 「青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。」 と語られたその言葉には私たち一人ひとりが、すでに、それぞれの色を持ち、光り輝いていることを語っています。

 この娑婆世界に生きる私たちは、他の人にはない、優れたものを持つことが、光り輝いて生きることのできる条件だと考えてしまいます。

 だから、みな必死になって、他の人よりも優れたものを手に入れようと苦労しています。

  このような、他の人と比較する心に私たちは縛られ、本来もっている輝きを自ら放棄しているのです。

 何もかもわかっていると思い込み、その思いに真実を隠されてしまう無明の中にありますこの私ですが、互いに違いを認め合いながら美しく輝いている、阿弥陀仏の浄土に咲く蓮の花を見習い、日々の暮らしを勤めていきたく思わされたことでございました。




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