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一日の空過(くうか)はやがて一生の空過となる
(浄土真宗・端 坊・榮 中)
前回は、私がお寺に生まれながら、材料力学を専攻することになったいきさつをお話しいたしました。
大学院に進学して村上先生の研究室に入り、5年間の博士課程を修了し工学博士の学位をいただきました。
その間、寺から逃げ出したくせに、萩に帰省したときの居心地を考えて、両親の希望のままに、浄土真宗の僧侶そして住職となるための研修を受けました。
僧侶となってからは、お盆参りを手伝うようになっておりました。
父からは、「ほとけの友」が毎月送られてきて、法語カレンダーも研究室に掲示しておりました。
ある時、村上先生が法語カレンダーに書かれている、「一日の空過(くうか)はやがて一生の空過となる」という言葉をご覧になって、「これは大切な言葉だ」と、私に話しかけてくださいました。
「空過」という言葉は、「そら」と「すぎる」という漢字2字の熟語で、全体の意味といたしましては、仏になるという命の目的を今すぐ腹に据えないと、一生が空しいものになりますよということでございます。
私たちは、自分の体を自由に操っているように思うことがありますが、本当でしょうか。
例えば、手の届く範囲が限られているので、背中のかゆいところを掻くために孫の手があります。
視覚などの感覚は、それぞれ対応する器官、神経、脳のいずれかが不具合をおこすと、とたんに調子が悪くなります。
心臓などの内臓は、自分の意思で止めたり、動かしたりできるものではありません。
これはどういうことかと申しますと、明日の命、極端にいえば一瞬先の命さえ自分の意思では続けることを確証できないということでございます。
このように、一面から見ると非常にはかない命を空しくないものにしてくれるのがお念仏なのです。
このことに、一日も早く気が付かないと、一生が空しいものになりますよというのが、「一日の空過はやがて一生の空過となる」ということなのでございます。
それでは、どうして、お念仏が私のはかない命を空しくないものにしてくれるのかということですが、当時の私にはよくわからなかったのでございます。
続きは次回の端坊の担当の時とさせていただきます。
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