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    「いのち」を頂くということ

曹洞宗・大覚寺・末益泰輝



 先日、小学校の授業参観と、その後、教室で児童たちと共に給食を頂く、という機会を得ました。

 学校教育に関わる各種団体の研修の一環だったのですが、個人的に色々と考えさせられた研修となりました。

 研修への参加者は約20名。

 約一時間の授業参観の後、私を含む4人は、1年生の教室で、子どもたちと一緒に給食を頂きました。

 といっても、子どもたちの席に混ざるのではなく、黒板の前あたりに、子ども達の方に向いて私たちの席が設けられ、そこで子ども達の食事風景を見ながら、一緒に給食を頂く、という形式です。

 準備が整い、いざ、食事が始まってみると・・・。

 同じ一年生同士でも、姿勢や箸の使い方はもとより、ちゃんとお椀を持って食べる子と、そうではない子。

 一つのものを集中的に食べる子や、ご飯、お汁、おかずを順序良く食べる子。

 静かに座って食べる子もいれば、立ち上がったり、他のことをしながら食べる子など、実に様々です。

 担任の先生は、一生懸命指導しておられましたし、私たちも見るに見かねて注意をしたのですが、日々のご苦労が偲ばれると同時に、各家庭における「食事」に対する思いや躾の違いが、垣間見えた気がしました。

 食事は私たちの「いのち」を保つためには、決して欠かすことが出来ません。

 目の前の一食一食の中には、数えきれない程の、多くの「いのち」と、それに携わる多くの人々の労力と手間、そして、愛情を含む「こころ」が込められています。

 そのお蔭によって今日の私たちの「いのち」があるわけですから、目の前に出された食事に対して、「有難うございます、頂きます。」という「感謝」の念を忘れてはなりませんし、誠心誠意の礼儀を尽くしたいと思うのです。

 やがては未来を託す子どもたちに対して、「ほんの少しでも大事なことを伝える責任が、大人にはある。」

 このことを切に感じた、この度の研修でありました。




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