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          「偽装」に翻弄されない生き方

曹洞宗・海潮寺副・木村延崇


 昨年来の偽装騒動の影響でしょうか?

 スーパーに行きますと「国産」をことさらに謳った食材が多く見受けられます。

 国産にこだわるのは、安全にこだわっている、ということでしょう。

 食べること。これは生きるために必要不可欠なことです。

 ですから今は人並みに生きていくことさえ危険にさらされている、と考える人が多いのかもしれません。

 嘆かわしい時代になってしまったのは、商品の生産や流通の構造が大変複雑になってしまい、生産する人と消費する人のお互いの顔が見えなくなったからでしょう。

 たとえば、自分で作った野菜を、自分の子供など大切な人に食べてもらおうすれば、自ずと生産方法に配慮がなされるはずです。

 ところがお互いの顔が見えないために、どこの誰が口にしようとも気にならなくなります。

 消費者もよほどのことがない限り、生産者個人にまで直接文句を言いに出向くこともないでしょう。

 先日ある会合で「給食費を払っているんだから、子供にいただきますといわせるな」という親がいるという、信じがたい話を聞きました。

 お金を払ってやっているんだから、その上いただきますと感謝を口にするなどとんでもない。

 逆に感謝されるのはこっちの方だ、と真剣にのたまう大人が増えたのでしょうか。

 確かにレストランなどの外食先で、手を合わせいただきますと言っている方はどれだけおられるでしょう。

 対価を払って消費するという社会に、当たり前のようにどっぷり浸っているのが今の私たちです。

 ですから食の安全にこだわるあまり、生産地や原材料などの表示だけに目を奪われます。

 しかしそれら商品表示のもっと奥深いところにある、生産者の額に流れる汗、努力とご苦労、消費者の喜ぶ笑顔。

 目では見えませんが、確かにそうした生身の人間が関わっています。

 手を合わせいただきますという態度は、目で見える以上の、途方もない世界に対する思慮深いものの見方に裏打ちされて、はじめて自然と身につくものです。

 大人自身が責任を持ってこうした態度を示していくべきだろうと思います。



音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。