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(曹洞宗・海潮寺副・木村延崇)
7月に山口県内を襲った集中豪雨は、いたるところに災害をもたらしました。
私は、地元仲間の呼びかけもありましたので、現地に赴いて、土砂に埋もれた一般家屋の庭や縁の下の泥の除去作業をしました。
連日、数百人を超えるボランティアの人が集まって復興支援をしています。
もう10年以上前の阪神大震災のおりにも、多くの仲間が支援活動をしました。
私はその時のあるお話が印象深く残っています。
炊き出しをしようということで、数人で大きな鍋で肉じゃがをたくさん作りました。
被災者にとっては、それまでは非常食ばかりで、また寒い時期でもありましたので、大変喜んでくれたようでした。
ところが、毎日美味しい肉じゃがを振る舞っていたところ、一週間・十日と経つうちに「ちぇっ、なんだまた肉じゃがかよ」と不満をいう人が出てきたそうです。
この一件はボランティア仲間の間で大変問題になり、そこまでいわれたのならもうやめよう、いや、それでも続けよう、などと意見の応酬があったそうです。
人間は成長するにつれて、だんだんと自分の都合のよいものの見方や振る舞いに染まります。
あの人にこれだけしてやった、と自分の善意を人に押しつけたり、感謝や見返りを求めることは誰もが無意識にしてしまうものです。
一番身近なところでは、親が子供に悪態をつかれると「お前のためにどれだけ身を削って愛情を注ぎながら育ててきたと思っているんだ」と思うのが親心かも知れません。
唯識仏教では、こういった愛情の裏側には、自分の振る舞いこそ最高のものとする心がはたらいている、しかも自分でも気がつかないほど深い意識の底に潜んでいて、「われを愛する心=
相手に無条件に向けられるべきはずの愛情が、実は自分に向けられているからこそ、見返りのない相手の態度に怒りを覚えるのでしょう。
私は唯識の説くこの指摘が私自身に向けられているのだと思うとき、身をつまされる思いをいたす毎日です。
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